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激務で教員を休職した僕が仕事を辞めて独立するまで

こんにちは、達朗です。

やりがいを求めて仕事に就いたはずなのに忙しすぎる。

こんなはずじゃなかった。

 

こういった苦労はありませんか。

この記事を読んでくださったあなたも、

不満のある現状をなんとかして変えたいと強く願っている一人かもしれません。

 

僕は以前、公立高校の教諭をしていました。

教員がどれだけ忙しい仕事なのか現場で体験してきました。

我慢無理を重ねた結果、身体を壊し休職をしてしまいました。

 

今では完全克服してマインドコーチになった僕からあなたに伝えたいことがあります。

「我慢」・「無理」はしなくてもいいんです。

 

あなたも今の働き方が我慢してるなぁ、無理をしているなぁと感じるのなら身体に反応が現れることがあります。

あなたの身体もすでにSOSサインを出しているかもしれません。

 

しかし、我慢・無理が当たり前になっていると、あなたの身体から発するSOSサインを見落としてしまう可能性もあります。

 

ここまで読んで、「自分にも当てはまるなぁ」と感じたあなたへ。

 

僕はすべての人が健康で幸せな働き方ができるように願っています。

あなたがこの記事を読むことで、幸せな働き方へ近づけるなら嬉しいです。

 

この記事の目次

【注意】この記事を読んでいる最中のあなた自身の反応を観察してみてください。

32歳の時僕は高校教員を辞めて、独立しようと決意しました。

この記事では、教員を休職してから独立するまでの経緯を洗いざらい書きます。

 

しかし、その前に1つお断りしておきたいことがあります。

多分、僕の教員人生は一般的な高校教員と同じでしょう。

 

この記事を読んでいる最中に予想される反応は2通りです。

「うんうんその通り」

と激しく同意してもらえるのか、

 

「教員なら普通じゃん!」
「私の方がもっと頑張ってるし!」と非難したくなるのか。

 

もしあなたの反応が後半のようなら、続きを読むのをやめてください!

…と言いたいところですが、ぜひ読んでみてください。

 

あなたがどれだけ無理して働いているかの指標になると思います。

 

自分の経験談を書くのは、今から思うと内緒にしておきたい恥ずかしいこともたくさんあります。

それでも僕は自分自身のことを洗いざらい全て書くつもりです。

 

この記事を読んでもらえば、あなたの仕事人生も我慢や無理をしていないか見直すきっかけになるはずです。

僕の高校教員時代

英語教育学を学びに大学院まで進学した後、

修了と同時に岐阜県の教員採用試験に一発合格しました。

 

教員になるのは中学校の時からの憧れだったので、

晴れて教員になれたのは本当に奇跡でした。

 

僕の教員人生は2011年4月東日本大震災の年に始まりました。

 

英語科の教員として7年間、

計3校に勤めました。

1校目は工業高校、2校目は普通科高校。

そして、結婚を機に転勤。

最後に赴任した3校目は教育困難校でした。

1校目(工業高校時代):柄にもないことを演じて生徒からナメられる!

1校目は、工業高校でした。

生徒は「ザ・工業高校生」と言えるやんちゃで、英語が大嫌いな生徒達でした。

 

当時初任で講師経験もない僕は右も左も分からない状態で教員の世界に飛び込みました。

だから、先輩教員からアドバイスだけが頼りでした。

 

ある日、先輩教員からこんなことを言われました。

「いかに生徒にナメられないかが大事だよ。

私は、授業開きするとすぐに少し気弱な生徒を探します。

その生徒のあらを見つけて大声でしかり飛ばすんだよ。

これはやんちゃな生徒への見せしめになる!

だから後々コントロールしやすいんだ!」

 

先輩教員のアドバイスに忠実な僕は、

「よーし、俺も生徒を威嚇してナメられないようにしよう!」

と意気込んで、今から思うととんでもないことを思ってました。

 

騒がしい生徒に対して、廊下中に響き渡る声で怒鳴ったり、課題を忘れてきた生徒に消化しきれないほど大量のペナルティ課題を渡したりしました。

始めの方は少し言うことを聞いてくれるようになりました。

「おー先輩の言う通りにしたら、うまく行った!」

浅はかな僕はこう思いました。

 

でも、柄にもないことをやってしまったため、生徒はすぐにそれを見透かしました。

すると余計生徒からナメられるようになりました。

何を言ってもダメ。

まさに授業崩壊寸前でした。

それからしばらくして、僕自身も学校に慣れてくると、少しずつ話を聞くようになった生徒も出てきました。

でも、一度崩れてしまった関係を取り戻すことは無理でした。

柄にもないことを演じることの無理を痛感しました!

2校目(普通科高校時代):平日授業→休日部活&補習のエンドレスな繰り返し

2校目は中堅の普通科高校だけあって、やんちゃな生徒もほとんどいませんでした。

その代わり、部活動と学習指導両方に力を入れている学校でした。

 

休日は部活動(朝6時スタート)、休日補習あり。

もちろん大会引率もありました。

県水泳連盟主催+高体連主催の大会共にほぼ全てにエントリーしていました。

引率の負担が結構しんどかったので、少しでも楽になるためにマイクロバスの免許を取得。

自家用車にはルーフラックを設置してました。

15万円以上かかりましたが、もちろん、自分でやったことです。

どちらも自費です。

「生徒のためを思ってやってる。教員ならこれくらいやって当たり前。我慢我慢!」

と言い聞かせていろんなことにやせ我慢していました。

 

でも僕だけが特殊だったわけではありません。

僕の周りの若手教員も身を粉にして働いており、補習から部活からまでスーパーマンのようにこなしていました。

だから、「しんどい!」と感じていても、自分だけわがままを言える状況ではありませんでした。

 

でも、身体だけは嘘をつきません。

休日も部活や補習で休みなく働いていたので、よく体調を崩したり、頭痛で寝込んだりしていました。

奇跡的に体調が崩れなくても、プライベートを充実させるだけの体力は残っていませんでした。

休日も朝4時頃には起きて部活の準備をしていたので、部活後の睡魔はひどかったです。

当時付き合っていた彼女(今の奥さん)とのデート中にはよく居眠りをしてしまっていました。

2校目に働き方改革の波はやってこなかった!

この学校にいる時に、ちょうど世間では「働き方改革」が叫ばれ始めました。

その流れもあって中堅の先生や校長が中心になって業務の見直しが始まりました。

また、その頃は学校が旧来のやり方から、先進的な取り組みへと舵を切る時期と重なりました。

ある日の職員会議での会話です。

業務の見直しについてこんな会話がありました。

ある中堅教員「最近若い教員を中心にやる事がありすぎて疲弊しています。

新しいことをビルドするだけでは、業務量が増える一方ですよ。

業務のスクラップ&ビルドをしなければ、教員みんなが倒れてしまいますよ。」

すると、それを黙って聞いていたベテランの先生が突然立ち上がりこう言いました。

「教員という仕事はプロフェッショナルでしょう。

業務が増えることは、「生徒のため」だと思ったら当たり前でしょう。

私も何十年も教員生活を送ってきたが、我慢はプロの教師にはつきものです。」

このベテラン教員の意見は確かに説得力があったので誰も反論できませんでした。

結局、スクラップ&ビルドの話は白紙状態に。

新たな業務だけがビルドされることになったのです。

この職員会議で学校が大きく変わったとは思えませんでした。

逆に、一部の若手教員にとっては、業務が増えて余計に働きづらくなりました。

その後、私は結婚。

転勤することになりました。

3校目(教育困難校時代):何もかもが今までと違う。常識が通用しないという危機感。

3校目は教育困難校でした。

とにかく人からの愛情に飢えている生徒が多かったです。

そして、自分で自分のことを愛することができない生徒もたくさんいました。

学校の内外で色々なトラブルを起こしたり、授業をエスケープしたり、ということがよく起こりました。

遅刻・早退・欠席も3校の中でダントツで多かったです。

クラス運営もこれまでのどの勤務校よりも神経を使いました。

しかし、どれだけ慎重にやっても報われないことが多く、

生徒は不満を愚痴に出して言うことが多かったです。

暴言も結構ありましたが、いつものように我慢しました。

今から思うと僕の余裕のなさが生徒を息苦しく感じさせていたんだと思います。

まさか自分が!?3校目で「適応障害」の診断を受ける。

3校目での勤務が決まった時、覚悟はしていました。

2校目にいる時に、以前働いたことのある人から「対策」を聞いてはいました。

でも…

実際は、突然感情を爆発させて暴言を吐いたり、学校の物品に当たる生徒などなど。

想像を超えていました。

それでも、担任をしている生徒とはよく話をするように心がけていました。

ある日には、職員室での私の対応を見たある教員から、「君は生徒からあれだけ言われてもよく平気だね。忍耐力があるね!」と言われました。

今では、あれは褒め言葉じゃなかったと思っています。

とにかく、どんなことがあっても

我慢我慢!

いずれ自分も慣れて大丈夫になる!

と言い聞かせていました。

「我慢」が当時の僕のデフォルト状態になっていました。

他にも、周りの教員に相談をしたり、自主研修会にも参加したり。

色々やって生徒対応を学びました。

一方、学校の方針は、問題を起こした生徒には、基本的に「反省文を書かせる」「ペナルティを与える」。

それでも改善しない場合は「自宅待機」「本人に進退を考えさせる」などとなっていました。

でも、この方針は僕にはどうしても合いませんでした。

じっくりと個々と向き合いたいと思っていたからです。

実際に、ある生徒とはじっくりと向き合うことでうまくいっていました。

だから、罰したり、反省させたりすることで生徒がよくなっているとは思えませんでした。

それでも転任してまもない僕には意見ができず「とにかく我慢!」と自分に言い聞かせました。

しかし、それも限界を迎えました。

ある日を境に激しい頭痛に襲われるようになりました。

寝ても覚めても頭痛がする。

そのうち職場に行けなくなりました。

これは今思うと「このまま行き続けると、自分がダメになってしまう」という身体からの悲鳴でした。

その週末、近所の心療内科に行くと「適応障害」という診断を受けました。

病休、その後、「このまま勤務するのは難しい」という判断のもと休職になりました。

ちなみに適応障害というのは

ある特定の状況や出来事が、その人にとってとてもつらく耐えがたく感じられ、そのために気分や行動面に症状が現れるもの

引用元厚生労働省ホームページ

です。

憂うつな気分や不安感が強くなるため、涙もろくなったり、過剰に心配したり、神経が過敏になったりします。

引用元厚生労働省ホームページ

僕の場合は、昼間は平気でも夜になると顕著に出ました。

悪夢でうなされる。

突然わめいて泣き出す。

飛び起きるなど。

いつも隣で寝ている妻にはとても迷惑をかけたと思っています。

そのせいで新婚なのに喧嘩も絶えず最悪な状態がしばらく続きました。

自分でも味わったことのない敗北感に泣き、このまま仕事を続けられるんだろうかと絶望しました。

コーチングと出会うまではずーっとそんな生活の繰り返しでした。

心療内科に感じた失望

僕が通った心療内科では専門の医師に診察をしてもらって、予約が空けばカウンセリングも受けられるというものでした。

でも、医師から告げられたのは、「カウンセリングは常時混み合っていていつ空きができるかわからない」、ということでした。

医師との面談はどれくらいだと思いますか?

たったの5分です。

2つの医療機関に通いましたが、どちらも似たり寄ったりでした。

だから、いつカウンセリングを受けられるかも分からないし、医者と面談をしても短すぎる。

これじゃあ絶対に治りっこない!

自分で治すしか方法はないな!

と思うようになりました。

薬も処方されました。

でも、副作用が怖かったのと、薬に頼っても絶対に治らないと確信していたので結局ほとんど飲みませんでした。

この経験で、私は自分で自分を治す術を知っていなければ回復は難しいということを知りました。

自分で自分を治す

ノート

私は休職中から今までずっとノートを書いています。

これは劇的な効果がありました。

特に心が弱っている時におすすめなのが、「5行日記」です。

スマートノートをブログや公式サイトでイベント映像による発表をしてから、いろんな人がブログやTwitterで感想を書いてくれました。そしてその中には少なからぬ数の「これ、ひょっとしてウツ治療に使えるんじゃないの?」「私のウツは、この方法でマシになりました」「ウツが治った」という報告がありました。

p83

これは本当に効果がありました!

ノートに書き出すことで、悩みがグルグル回っている状態から解放され、だいぶ楽になりました。

すると、次第に生産的な方に頭を使えるようまでなってきました。

休職中に書いたノートは7冊になりました。

書くのが楽しくて楽しくて。いろんなことをノートに書いています。

ノートを書くことで自分の思考の3つの癖が見えてきました。

  1. 何事も我慢したり、遠慮してしまうこと。
  2. 自分の考えを自分で打ち消してしまうこと。
  3. 自分の本音に嘘をつくこと。

です。

そして、この癖によって我慢が飽和状態になり適応障害になったと言うことが見えてきました!

我慢について書いた記事が他にもあります。

どうぞ。

記事を取得できませんでした。記事IDをご確認ください。

読書

「読書をする習慣がなかったらとっくの昔に死んでいただろうなぁ。」と思います。

これは間違いなく言えます。

休職して落ち着いてから真っ先にしたことも読書でした。

私の中で何事も我慢してしまう長年の癖が適応障害に繋がったと考えていたので、解決策を色々模索しました。

そして、本の中に解決策を求めました

休職中に私の心に響いた著者ベスト3は、「泉谷閑示さん」、「千田琢哉さん」、「苫米地英人さん」です。

なぜこの3人を知ったのか今では思い出せません。

それくらいいろんな回り道をしました。

泉谷閑示さん(精神科医)

はじめに

自分が自分らしくあること、その大切な中心である「角」、それを自分自身で憎み、邪魔にして隠しながら生きるようになってしまうと、生きること自体が色あせ始め、無意味なものに感じられるようになってきます。

生きるエネルギーは枯渇し、すべてが立ち行かなくなってしまいます。

冒頭より

「角」というのは個性です。

誰もが持っている個性を否定することで、エネルギーが枯渇すると言うのは僕にも思い当たる節がありました。

個性を殺す行為と言うのは僕にとっては「我慢」です。

「これはちょっと違うんじゃないか。

こうした方がいいんじゃないか。」

と感じても、それを「我慢、我慢」と言って殺してきたことを感じました。

これが、いかに身体に負担をかけているのかということが腑に落ちました。

僕がなぜ苦しいのか、その構造をこの本が明かしてくれました!

千田琢哉さん(文筆家)

「我慢」という名の現状維持に逃げ込まないために。

「今、我慢しておけばいずれ幸せになれる」

そう信じて眉間にシワを寄せながら頑張っている人は少なくない。

学校でも「我慢するのはいいことだ」と教わっただろう。

しかし、周囲を見渡してもらいたい。

我慢に我慢を重ねた人生の先輩を見て、果たしてその人は幸せになっていると感じるだろうか。

プロローグより

これは我慢について書かれた名著だと思っています。

「学校ってそもそも我慢を美とする価値観があるけど、

我慢ってそんなにかっこいいことじゃないよな。

むしろ我慢することで病気になったり、人に意地悪になったりあんまりいいことないぞ。」

こう思えるようになったのも千田さんのおかげです。

我慢をした末に適応障害になった自分自身を認められるようになりました。

病気になったのは自分は人よりも感受性が高かったから。

ほとんどの教員が気づけていない我慢や無理の危険性を痛いほど分かってる!

苫米地英人さん(認知科学者、その他多数の経歴)

あなたの瞳はこどもの頃のようにキラキラ輝いていますか?

我慢の原因もその悪影響も分かった。

じゃあ、「どうすれば自分は我慢をせずに生き生きと人生を送っていけるのか?」

と考えたときに苫米地さんの本が解決してくれました。

この『立ち読みしなさい』と言う不思議なタイトルの本、

開けてみると上の言葉が書かれていました。

これを読んだ時、

「自分の瞳は子どもの頃のように輝いていないなぁ。

いつから輝きを失ってしまったんだろう。」

とショックを受けました。
本を読み進めていくうちに、こう確信しました。

この本に書いてある通りにやれば、自分の本当にやりたいことが見つかる!

そして、無理をせずに働けるようになる!

この本が「コーチング」との初めての出会いでした。

こうして僕はコーチングという夢実現方法の虜となりました!

プロコーチ 養成スクールに通う

苫米地さんの本を中心に、コーチングについて知れば知るほど魅力に取り憑かれました。

これなら自分を変えられるかも知れない!

学校に戻る自分のためにも、そして生徒にもこれは教える価値がある!!

そう直感しました。

でも、休職中だった僕はいち早くコーチングを使えるようになりたいと思うようになりました。

コーチングを深く早く身につけるためには、自分が教えられるようになればいいじゃん!と思いました。

これは教員をやっていたからこその経験則でした!

次にとった私が行動は…

コーチングのプロ養成スクールへの申し込みです!

なんとコーチングを知ってわずか2週間後の早さでした。

スクールの授業料はなんと148万円、かなり高額でした。

でも、それくらい価値のあることだと確信していたし、それくらい切羽詰まっていたんですね。

全く迷いはありませんでした。

スクールでは、コーチングの基礎理論から少人数で徹底的に学びました。

初回で言われたことは、次の3つを捨てるということでした。

  1. 他人依存
  2. 魔法探し
  3. 完璧主義

3つに対して次のように気づきが得られました。

1→コーチングは夢を叶える手法を使いこなせるように人を導きますが、

コーチに依存させるのではなく、あくまで人を自立させることがゴールだ。

2→長年染み付いたマインドを変えていくので、瞬時に問題を解決する方法はないということ。

3→自分自身を否定しないということ。現状を変化させる上で大切なのは、自分を認めたり褒めたりすること。

この時感じたのは

これをマスターすれば必ず自分の状態を改善することができる!

そして、コーチングの手法は人を育てる要だということでした。

初回のスクールで俄然やる気になりました!

コーチングをやり始めて、毎日が楽しくなり始めた!

コーチングでは現状をぶち破る力を得るために、現状の外側にゴールを設定します。

現状の外側のゴールの方がより大きな力を発揮できるからです。

初回のスクールでは課題として、ゴールを考えてくるように言われました。

必死に考えた挙句、私の中から出てきたゴールは「職場に戻ること」でした。

 

「コーチングマインドを使いこなせるようになって、なんとか職場に戻らなければ!」

僕の中では職場に戻る焦りがあったので、「戻らなければ」という言葉を使っていました。

でも、この時はまだ気づいていなかったのですが、今思うとこれは本当のゴールではありませんでした。

「しなければ」は目標達成から遠ざかるor達成できないゴール設定なんです。

実際このゴールを掲げてしまった私は、職場に戻りたくても戻れない状態を繰り返しました。

戻る直前になると体調が悪くなってはまた良くなったりという状況だったのです。

ちなみにコーチングではこの現象にも科学的に説明がつくことを後から知りました。

スクールのコーチからは、

「ゴールは変わってもいい!」

「どんどんゴールを更新するように!」

と言われていたので、セルフコーチングをやりながらどんどん自分の本音を観ていきました。

セルフコーチングをやると現状が変わっていきました。

ちゃんと笑えるようになりました。

あれだけ見ていた悪夢を見なくなりました。

そして、「あれもやってみたい」、「これもやってみたい」と

前向きに考えられるようになりました。

ゴールが変わる。「職場復帰」から「プロコーチになる!」へ

コーチングをやっていくと、ゴールも変わっていきました。

やりたいことが次々と出てくるので、改めて自分の本音に問いかけてみました。

今やりたいことは、教員をやりながら実現できるだろうか?

コーチングをやる中で出てきたやりたいことは、

「コーチングの情報を現場の教員に向けて発信したい!

我慢や無理な働きかたをしている教員を助けたい!」

というものでした。

これは、僕が無理して我慢をして病んだ経験によるものです。

病む前に自分の人生に光を当ててくれる存在がいれば自分は病むことはなかったし、

適応障害と診断されても医療機関があてにできず、自分で治すしかなかったという経験です。

冒頭で言ったように、今の時代の教員は無理をすることが当たり前になっています。

だから、学校で一番苦しんでいるのは、教員だと思います。

「僕みたいに無理をして、我慢をして、身体を壊してしまう教員が全国には間違いなくいる!

そんな教員が全国からいなくなるように、価値あるサービスや情報を届けたい!」

こんな熱い思いが僕の中から出てきました!

その時、僕の背中を押したこんな言葉があります。

前出の泉谷閑示先生の言葉です。

(私は)思い悩むことが普通。だから患者さんたちが悩んでいるよりも何倍も悩んだ自信があるんですよ。

引用元 大竹まことゴールデンラジオより

この言葉を聞いて、

「教員の悩みは教員にしか分からない。

だから自分がやろうとしていることは価値あることだ!

俺が悩み、病んだ経験は負債ではなく財産だ!」

と確信しました。

ここまで読んでくださってありがとうございました!

僕がこの記事であなたに伝えたかったのは、たった1つでした。

 

あなたは無理な働きかたに我慢なんてしなくてもいいんですよ!

ということです。

この記事をここまで読んでくださったあなたは、きっと僕のように無理をしながら教員生活を送ってきた人だと思います。

でも、僕の経験から分かるようにちょっとしたことがきっかけとなってあなたの人生は大きく変わります。

だから、我慢ばかりを強いられる現状を変えることを諦めないで欲しいですし、諦める必要もないんですよ。

自分に厳しくなりすぎると、せっかくあなたの中に生まれた大事な考えがしぼんでしまいます。

あなたは現状を変えるために、自分を褒めてもいいし、変わってもいいって自分に許可を与えてもいいんです。

ちなみに、コーチングでは現状を大きく変え、あなたが目を輝かせながら毎日を過ごせるようになるための手法が揃っています!

ここまで読んで興味を持ってくださった方へ

達朗に興味を持った方はこちらにもエピソードを載せています。

下のリンクからどうぞ。

教員辞めてコーチになったのは人の夢を応援したいから

休職を乗り越えた高校教員の僕が、「教員を辞めプロコーチになる!」と決意したわけ

コーチングに興味が湧いたら下記に連絡先があります。

お気軽に僕まで連絡ください!

質問でも構いませんよ!

 

片桐達朗(かたぎりたつろう)のプロフィール

元公立公立高校の教諭(英語)

マインドコーチ。教育家

岐阜県出身。

自己犠牲で働いている教員をコーチングで救うべく活動している。

2011年3月 立命館大学大学院言語情報研究科 英語教育学プログラム修了

県立高校英語科教員を7年間勤めた。

2018年6月 学校教員専門のプロコーチ

3校目で適応障害になったことをきっかけに考え方や働き方を変えることを決意。

コーチングに出会って完全克服。

ブラックな職場で病んでしまう教員が大勢いることを知り、学校教員向けのプロコーチになることを決意。

プロコーチ養成のスクールを経て、公立高校の教諭を退職、プロコーチとして独立した。

「現場で一番苦しんでいるのは教員」という立場に立ち、教員の味方として活動している。

高校での勤務経験を活かし、教員の夢実現の支援を行なっている。
 
 
 

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